今日という日

みずひきがもう咲いているんだ、と a-dollさんの記事を見て 早いね~と思った

そういや、図書館へ行くいつもの道で 

シュウメイギクが 咲いていて これまた(◎_◎;)したのを思い出した

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今日はね、特別な日

誰にも言ってなかった

 

今日の16時から わたしは 母より 長生きへの時間に突入する

 

もし

もしかしたら

 

母が あの時 家に連れ帰ったことを 怒っているとしたら

わたしに 16時以降の時間は無いのかもしれん・・・

なんていう想いにとりつかれてしまったのは 母の看取りの後悔からなのか

 

まだ介護保険もない1993年7月

医師に あと持って1週間、と言われたと 

妹から 職場に架かった電話で 即 帰省した 

 

中心静脈栄養、酸素吸入、腕からの点滴、尿の留置カテーテル、消化管が機能せず嘔吐を繰り返すからと胃に入れられたチューブのいわゆるスパゲティ状態の母を 

最期は 家で看取りたいので 退院させようと 決めた

 

夏休み間近だったこと

職場は 落ち着いていて 問題ある子供も居なかったこと

一番動けるはずの妹②が 腰痛ヘルニアの手術予定を目前にしていたこと

 

ここは 私がやらなきゃ!と 後先じっくり考えもせず 行動していた

 

見舞うたび「病院は嫌や、家に帰りたい」と 母は言っていたから

 

病院側には 無理だと言われた

 

あの頃は 若かった

1週間! それくらい なんとかなる、と

 

連れ帰ってからは試行錯誤

大きな褥瘡の手当て

昼夜2時間ごとの体位変換

経口摂取は無理と言われていたが それでも 少しづつ経口摂取できるようになり

1週間に一度の往診してくれるDrを探し その時の500ccだけの輸液だけしてもらった

 

パンパンだった下肢の浮腫も 引いて 骨が見えるような褥瘡の傷も小さくなっていった

 

すい臓がん末期、入院中は 「痛い痛い」と 注射を希望していた母

退院してからは 寝る前の鎮痛剤の座薬のみで済んだ

 

チューブにつながれていた時より 

ずっとずっと 苦痛を訴えることもなかった

 

1週間が過ぎ・・・

 

夏休みが終わり 新学期が始まった

 

だんだん 子ども3人のことが気になってくる(🐢はその頃 元気だったから 車で子供たちを連れてきたが 長女は 母の居ぬ間に 結構羽を伸ばしていたようだった)

 

一度も 家へ帰ることなく 母のそばにいたが

2か月がたち 見まいに来る妹たちが なんだかお気楽にみえてきた

 

父は 母に近づくのも 初めはこわごわ・・・そのうち 火のついたタバコをこっそり口元へ(最後は火のないタバコだったけど)

 

出戻りしていた姉は 仕事をしていたので 夜間は寝かせたかった

 

3か月 母を看なきゃ、の想いが 重荷になってきた

気の休む時がなかった

鬱になりかけていたのかもしれん

 

母は 無口だった

「ありがとう」を言う人ではなかった

時々 亡くなった兄さんがそこに居る、などということはあったが

何を思っているのか?

分からないのも 辛かった

聞いても 話すことは 「あっち向きたい、こっち向きたい」だけ

 

母は 経口で 少ししか飲めなくても 人間生きられる、ということを証明してくれていた

母の状態は それなりに安定していた

往診の医師も この先どれだけの余命があるかとは分からないという

 

姉が 仕事を休めるように職場に話したから 

一度 帰っていいよ、と言ってくれた

 

待ってました、と その言葉に ありがたく 3か月ぶりに自宅に帰った

 

でも 心配だから 1週間後 皆と一緒に帰省して1泊した

 

母は わたしが帰った時と そう変わらぬようだった

姉も記録をつけてくれていた

 

翌日 妹たちも 見まいに来た

母の寝ている隣で わいわいガヤガヤと賑やかだった

 

昼過ぎ 母が 「みんなはどうしている?」と聞いた

「隣の部屋に居るよ、もうじきしたら 帰るけど、また来るからね」

「🐢は?」

「居るよ」と 言うと 母はまた眼を閉じた

 

そろそろ 帰る時間になり 母の様子をみたら 

大きく下顎呼吸が始まっていた

痰が絡んでいた

🐢と父が 往診してくれるDrを呼びに行ってもらった

これで 母とお別れになるのかと 思いながら 口の中の痰を掻きだしていた

16時 Drが来る前に 最後の息を引き取っていた

わたしが来るからと 仕事に出ていた姉は 間に合わなかった

 

妹たちと 母をきれいにした

 

アルコール依存であった母に どれだけ嫌な思いをさせられたことやら 

うらみつらみの 母との関係だった

最後の3か月 そばに居ても Nsとして世話していた自分、という自覚がある

娘の自分は そこに居なかったかもしれない

母を看取った後 それ(後悔)がいちどに どどっときた

 

焼き場にもいけず 

皆が葬儀の後会食している場にも 出られず 

泣いているだけのわたしに 

父は 「なんで泣いているの、よくやってくれた」と 言ってくれた

何とも答えようがなかった

あと1週間 そのまま母を看てあげていれば 母はまだ生きていたのか?・・・

 

だから もし母が 怒っていたら 

今日の16時以降の時間は ないかもしれん、などと 

秘かに思って今まで生きているのだ

 

16時以降、わたしは母の分もあわせて もっと生きてみたい、と願っている