昨夜 あの日(25年前の1月17日) 何をしていたか?の話になった
火曜日、三女のスキー教室の日で そろそろ起きて弁当作らなきゃ、と 目が覚めたその時だった
経験したことのない大きな音、激しい上下の揺れ
今にも 窓ガラスが割れるかと思うようなガタガタいう音、長~く続いたように思えた揺れ
子供達に布団をかぶせて ひとかたまりになって ただただ揺れが収まるのを待った
その時 川の字の端で寝ていた🐢は もぞもぞしたものの起きようとはせず
そのまま布団をかぶりなおしただけだったことは いまだに忘れていない
この時、いざという時は 🐢を当てにしないと心に誓ったのだ
TVも 当時は 地震があったということ以外 詳しい報道はなされておらず
とりあえず、弁当を作り、朝食を食べさせ
まだ薄暗い中 学校からバスでスキー場に行く三女を 姿が見えなくなるまで外に出て見送った
長女は ひとり暮らしだったので 電話がなかなかつながらず ずいぶん明るくなってから 物は落ちたけれど 大丈夫と聞いてホッとしたこともはっきり思い出せる
次女は 前日より風邪で 発熱していたので その日は休ませた
で、🐢は?
「あの日も 山へ行ったよね!」と私の記憶では そうなる
当時、休みの度に ひとり近郊の山へ登ることを趣味としていた
あの日、休みで そのまま 比良山へ車で向かった
なのに 🐢は いやいや仕事だったよといった
そんなはずがない
阪神淡路の被害が TVで徐々に明らかになっていくのを
(わたしも休みか夜勤?だったのか)氷枕をして寝ている娘の横で ありえない光景に 目が離せないでいた
帰ってきた 🐢にこんなことになっていたよ!と言った覚えがあるもの
まさか、そんなことになっているとは思いもしなかった🐢は
申し訳ないと言い 休みを取って 大きなリュックに思いつくだけの品を入れ 電車が動くところまで行き、あとは歩いて被災地に届けた
直接 被災地を訪ねただけに
日常から 非日常の世界の境界が くっきりと分かれていた現実に 戸惑って帰ってきた
なのに、🐢本人はあの日の記憶が あいまいなのだ(能天気に山へ行ったことと関係あるのではとわたしは思っている)
風化を心配するのも うなずける話だ
神戸の街の再建計画は 25年経って 計画通りの成果は出ず、一般市民生活は 破綻し 使われた多額の税金の行方さえ闇の中と 昨夕のニュース報道は伝えていた
我が住まいの大津では 市役所に 被害が出たと後から聞いた
野球場の この照明もあんな大きな地震が来たら だいぶん年月が経っているから倒れるかもなぁ・・・クワバラクワバラ・・・最近上から落ちてくるニュースが目につく
そうそう、このあたりに!咲いているのじゃないかなとキョロキョロ
🐢のリハビリにと この辺りは 何度も来ているところ
おっ!咲いていたよ~ほらね
花の数は少ないが かすかに 梅の香がしていた